2009年10月30日金曜日

国士舘対朝鮮高校

私は右翼からなのか(精神的な右翼であってなんら活動はしていません)、国士舘が好きですね。
〈私はどちらかというとファシスト、NSDAPに近いですから、日本の右翼の人には理解されないようです。〉

私の生まれたところが長野の田舎ですから、直接現場を目撃したわけではありませんが、当時東京にすんでいた先輩から話は聞きました。
なんでも山手線であろうが何であろうが、木刀片手に大乱闘を繰り広げていたらしいですね。
ホームのベンチでは、仰角45度に野獣のような顔をしてふんぞり返っていたそうです。

しかし、朝鮮も強かった。五分五分と言った感じでしょうか。

大阪の友達の話では朝鮮高校が出来ると、いつのまにかそのそばに国士舘が出来ていたそうです。
あるとき電車に乗ったら、国士舘の襷(たすき)をかけた5,6人の兵隊たちが仁王立ちに立っていたそうです。友達の感想。「かっこえ~~~」

神風特攻隊 

敵は太平洋上の要塞化された我軍島をつぎつぎと攻略――怒涛の如くフィリピン諸島へと迫った。

陸海軍の精鋭たちが続々と終結する中、起死回生の策として、零戦に250キロ爆弾を積み敵艦に体当たりするという作戦を考案した。
発案したのは「大西滝次郎」であった。

「敷島隊」関大尉を中心とする史上類を見ない特攻攻撃が開始された。

多くの若者が笑って散って行った。



私たちの先輩たちに、日本という国を守るため、家族を守るため、愛する人たちを守るため、散って行った人たちがいる。

彼らに理屈はありません。
ただ、愛する人の幸せを祈って、死んで行ったのです。

それらは二十歳そこそこ……あるいは高校生くらいの未成年者たちでした。

それらの事実を私たちは決して忘れてはなりません。







鋼鉄の騎士たち

私としては鋼鉄の騎士団を紹介したい。
こんな言い回しをすればピンと来られる方もおられるかも知れない。
そう、かつての「ドイツ装甲師団」の将校や兵士たちです。
普通は機甲師団といいますが、各国の機甲師団と区別する意味か、日本語ではこう表記する本がほとんどです。

ドイツ軍で一番有名なのはロンメル将軍で、彼だけは敵味方両方から評価され、人気が高い。
しかしドイツ軍は根っからの戦争のプロの集団――そのなかではロンメルは目立たず、まだまだ若輩者といった感じでした。
しかもどういうわけかみなかっこいいのです。イケメンなんですね。
それもそのはず~~
俗にユンカースというのですが、ドイツ軍将校はみな貴族だったのです。それら貴族出身者の集まりをユンカースといったのです。それは軍だけで言われたのかもしれませんが。

南海に舞い 覇を競った大空の騎士たち

南太平洋戦線――――米軍の反抗作戦に真っ向から立ち向かった空の騎士たち……。

かっこいいですね。私はこの辺りがすきなんですね。
南洋ということもあってロケーションがいいからなのでしょうか。

しかし戦うほうは必死です。日本の戦闘機は一発でもあたったら命取りですから、あとは海に消えるだけです。
陸は大変だったと思いますが、空は景色が美しい……それだけが救いであったかもしれません。

パールハーバーから華々しい戦果をあげ瞬く間に東南アジアを席巻した日本軍ですが、当時国力はアメリカの10分の一、資源もいまほど売るものがなかったので、外からはほとんど入ってきません。外貨もあまり稼げません。
つまり資源は半年でそこをつく程度です。アメリカを相手に長続きするわけがありません。

しかも日本の連合艦隊は致命的な失敗をしてしまいました。

「ミッドウエイ海戦」で主力空母のほとんどを失ってしまったのです。
それとともに貴重な飛行機、優秀なパイロットもほとんど海の藻屑と消えてしまいました。
たぶん生きていればエースパイロットがたくさん生まれていたでしょう。
彼らが死ぬということは後輩たちを導き育てる人がいなくなってしまうということです。

よちよち歩きの若年パイロットは腕のいい修羅場をかいくぐった先輩たちを頼りにするしかありません。

有名ですが、酒井三郎という人は
「いいか、お前たち、おれから絶対離れるなよ。そしたらおれは絶対お前たちを死なせない……。」
といって小隊を率いていたそうです。
たぶん骨抜きになった海軍航空隊は、巣立った雛鳥がそのまま落っこちるように、飛び立った先からばたばたと死んでいったと思います。

個人的に私は「ラバウル航空隊」がすきなのですが。

日本軍の隙をついでガダルカナルに上陸、ヘンダーソン飛行場を建設した海兵隊15000を主力とする米軍に対し、日本軍は激しい奪回作戦を開始します。

陸海をあわせて伯仲した血みどろの戦いをしたという点では、太平洋戦争最大の激戦であったといってもいいでしょう。

2009年10月29日木曜日

安藤組のメンツ

安藤組は俳優の安藤昇が作った組織です。
数々の兵がいますが、なかでも「すてゴロ」の花形敬が有名です。
「すてゴロ」とは素手で戦う喧嘩のことです。
素手の「ゴロまき」、東京辺りではけんかすることをゴロ巻きといったんですね。

 別に私はやくざやさんではありませんが、花形さんはちょっとあこがれですね。
陣内孝則さんの「ちょうちん」という映画、“つたや”にもありますが、ビデオを見るのもいいかも。

コンビにでもそれ関連の安藤組、花形をあつかった漫画が出ていました。
私の場合はそれ以前から研究対象でしたので、もちろん知っていましたが、やっぱり漫画になるのはいいものですね。けっこううれしかったです。

「ちょうちん」では安藤組とともに渋谷での活躍――最後の多摩川べりでの戦いで殺されるのですが、
実話に忠実に描かれていて感動しました。
舞台が渋谷を中心とする都心部でのアウトローたちの活躍、たまにはいいかもしれません。

《柳川組組長》――日本名 柳川次郎

 山口組の斬り込み隊。組の中でも一番の戦闘集団でした。……いえ、知っているわけではありませんが。
 このひとは軍人ににた他のやくざにない独特な戦術手腕を持ち合わせていたようです。

 「けんかの柳川」というイメージを定着させた有名な抗争事件があります。
 これは柳川が売り出しの頃の、つまり山口組にはいる前です。
敵の本部に殴り込みをかけ、そのときは波状攻撃をかけたらしい。
普通やくざでこんなことはやりません。かなりの戦争のプロです。あるいは気違いがつくらいです。

日本軍が真珠湾攻撃をしたとき、二回まで波状攻撃を行い、三回をやるかどうかで参謀たちがもめました。
結果は備蓄石油、修理ドックなどのちのち仇となる中途半端な攻撃となり、苦しめられる結果となりました。

そんな天下分け目の決戦で使われる戦術を、彼は普通にこなしていました。
やれやれやっと終わったかと損害確認をしているうちに、第二波が来るんですから
「え、なんで」――てなかんじですね。
今改めてじっくりと考えてみると――
 (何十年もたって改めて思い直し、気づくことがたくさんあります)
 たぶん軍事作戦的な発想ではなかったと思います。
 当相手側の組織のほうが大きかったのです。老舗でもあったようです。
 (当時、山口組をはじめ老舗と新興勢力との争いが全国あちこちで起きていた)
柳川は作戦を練り、考えに考えた末、波状攻撃をしようとの結論に達する。
1、一気に攻め込まれたら、数の上で勝ち目がない。
2、ここは先手を打ち、敵のアジトに乗り込むべきだ。
3、戦力比は3:1――一回だけではうまくいっても敵の3/1しか倒せない。――そのうち目減りする。
4、ならばいっそ何回でも斬り込めばいいじゃないか。
                            ~~そんな感じです。
戦いというものは何時間も戦っていれば疲れます。また、どこかで休憩を入れねばなりません。
戦いは全力疾走と同じですからね。速度を落とした瞬間やられます。
こう着状態になったり、にらみ合いになったりすることもあります。
それはけっきょく無駄ですから、できるならば「ぱっとやってぱっと帰る」
むかしこんな歌がありましたね。
「高崎~山の山奥で 小猿を集めて〇〇ズリの稽古 パッとやって〇〇〇〇せ、パッとやって〇〇〇〇せ」
《金太郎のメロデイで》(失礼しやした~~」
パッとやるのが一番です。戦史がそれを示しています。
 たぶんハジキ(関西ではチャカ=拳銃)も弾切れになります。刀もボロボロです。
アジトに戻って再武装、補給、タッチアンドゴーで出撃 ←←← これ戦争の基本です。

 柳川組もこうしなければ負けると思ったのでしょう。一か八かでもあり、数の劣勢を埋めるためには
普通の三倍は動かないとだめなのです。



    途中ですが、
 書いている今、モバイルがばくりました。私も性格が柳川さんみたいに激しいみたいですね。
 自分の性格だからそんなことはわかっているのですが、調子よく書いているのに何かの拍子にPCの動きが
重なりばくった。
 瞬間かっと来た。「なにやっとんじゃわれぃ~~」
(友だちが東大阪、俗に言う河内辺りだった。河内弁を指南してもらい、われの
言い回しだけは絶品です。)
 頭にきてPCを床に叩きつけてやろうかと思いました。携帯でもそうです。やっぱり叩きつけてやりたくなります。でもそんなことをしていたらいったいどれくらいお金がかかるでしょうか。
私がセレブだったら一ヶ月100万くらいは使ってますね。いつもそのたび心を落ち着かせ、「落ち着けよ~
これ7万くらいだよな。」そんな感じです。失礼しました。

稲川会 (熱海錦政会)

稲川さんは好きです。(なれなれしくてごめんなさい。)
私の尊敬する人ですね。

警察から目をつけられそうですが、暴力団を肯定するものではありません。

極道者は暴力団といわれることを嫌います。
やくざと暴力団とは本来意味がちがいます。
本来やくざとは、大きく分けて「博徒」と「テキ屋」に分かれます。

戦後より愚連隊が現れ、やくざとは形を変えた暴力組織が数多く現れ、それらと一緒くたにされて、やくざ=暴力団と社会的に見られるようになりました。

とりわけ関西では、お金のためならなんでもありという組織が多く発生しました。
「〇〇興業」とか言うのが多いですね。ですから彼らはたくましくしぶとい集団です。

山口組は港湾荷役人夫供給業として神戸港の港湾労働者を抱えて発足していますから、もともと純然たる企業だったんですね。美空ひばりで有名な「神戸芸能社」も設立し、「山陽運輸」?なども立ち上げていますから、これだけ見ればまったくの会社です。ただ荒っぽい人たちが多かったんですけどね。
ですから山口組は実業やくざといってもいいかもしれません。

さて、稲川聖城初代会長(稲川角二)は博徒の修行をして頭角を表していくのですが、その途上で出口辰夫と出会います。



 「モロッコの辰」こと出口辰夫。
「モロッコの辰」 私はこのあだ名が好きです。

かっこいいですよね。
「おれはいつかモロッコへ行くんだ。」とか言っていたことから来たのだともいわれています。
本人もいつかモロッコへ行って名をあげてみたいと思っていたのかもしれません。
たぶん「映画「モロッコ」などを見たのかもしれません。
私にしても外人部隊のモロッコなど……なんとなくあこがれてしまいます。

かっこいいですね。

横浜の愚連隊だった出口を筆頭に、その関連から集まった四天王といわれるアウトローたちが稲川を支え急成長を遂げます。

詳しくは松方弘樹の「修羅の群れ」をみると勉強になると思います。
やはりコンビニで実録者として漫画が出ました。私の愛読書です。
山口組一辺倒だった私は、稲川会にはあまり興味を示さなかったのですが、このごろになってすごい傾倒しています。

私はかっこよさと人物的に惹かれています。

山口組三代目 田岡一雄

田岡さんは高校の頃より知っていました。
勘違いしないでくださいね。知人であれば光栄ですが、そうではありません。

高校の頃、長野県で高校の連合を作り(夢で終わってしまいましたが)、
武闘派を組織して乗り出そうという計画がありました。

まず、地域的に中信地方を治め、ついで中京方面に進出、ある程度の勢力をつくったら関東へと進出しようと思いました。

しかし、いまから3,40年前ですから、高校はやばかったですよ。
番町グループ――総番長とか裏番とかいて(私の従兄弟が年が離れてますが、実は同校の総番長でした……らしい)。
女だって負けてはいません。スケ番グループがいました。
田舎なのでいませんし、見たことはありませんが、すごかったらしいですね。
総長を中心に第七艦隊のように前進し、遭遇した人たちははじき出されるか、餌食になる。
スカートはドレスのようなロング――裾のところにかみそりがつけてあって、華麗に回転すると人間カッターですね。やっぱりかみそり(昔の替え刃で、二枚併せ持ち、切る)で武装していて、二枚刃だと切り口がくっつかないらしい。こえ~~~。
ほかにもいろいろスケ番のほうが残虐だったらしいです。

私のところは中京方面に挑戦系のやばい学校があって、まず進出するにはそこを叩き潰さなければならない。
中信方面にもやはり挑戦系――本格的に始めれば高校生のくせに山口組的な報道になったかもしれません。
なにしろ参考になっているのは山口組ですからね。教科書教本参考書みんな山口組――高校生のくせに
「山口組三代目」「田岡一雄自伝」実録柳川組」とか興奮しながら読んでましたからね。

「うおわ……すっげ~~、やっぱこうじゃなくっちゃな~~」
「大量動員作戦~~三人一組……一人一殺。うんぱくっちゃお」
高校生がこんなものを読んじゃあいけません。

主力武器は木刀です。
そこで事件があり、好きだった女の子にそんな現場を目撃されてしまったのです。私は木刀を近くの植え込みに慌てて隠しました。剣道部の振りをすればいい訳ですが、どう見てもそうは見えませんでしたね。
実際剣道部だったのですが、買うときにさえ警戒されてました。
不良のオーラ?が出ていたのでしょうか?
女のこととか進学など重なって私の夢はあえなく潰えました。

2009年10月20日火曜日

まずはじめに

ひとつくらい男くさいブログがあっても良いのではと思って創りました。

1、戦史

2、一世を風靡した暴走族の先達たち

3、格闘技

4、女との付き合い方